大学院時代の研究
小脳顆粒細胞における活動依存的な遺伝子発現調節機構とそのシナプス成熟への関与
神経細胞における活動依存的な遺伝子発現調節は、脳における神経回路の形成やシナプスの可塑性に関わる基礎的過程の一つです。私たちは中枢神経系における代表的な興奮性神経細胞の一種である小脳顆粒細胞をモデルに用いて、神経活動の主要な分子的担い手と考えられる細胞内カルシウムイオンや神経栄養因子による遺伝子発現調節機構について以下の研究を行いました.
(1)カルシニューリン-BDNFシグナリング相互作用によるNMDA受容体NR2Cサブユニットの発現調節
一般に生後発達期のシナプスでは神経伝達物質受容体のサブユニット構成が幼若型から成体型へと変化することが知られています。小脳顆粒細胞においては生後2-3週にかけてNMDA型グルタミン酸受容体のサブユニット構成が NR2Bを含む受容体複合体からNR2Cを含む複合体へとスイッチします。このNMDA型受容体のNR2Cサブユニットへのスイッチング機構はその受容体の同定以来の長年の謎でしたが、私たちはHomer1a mRNAの発現調節機構の解析 (Sato et al., J. Neurosci., 2001)で構築した実験系を用いて、成熟顆粒細胞に特徴的なこのスイッチングのメカニズムを明らかにしました(Suzuki et al., J, Neurosci., 2005)。通常の非脱分極条件下(5mM KClを含む培地)で培養した顆粒細胞を脳由来神経栄養因子BDNFで4日間刺激すると、MAPキナーゼ依存的なNR2CサブユニットmRNAの発現増加がみられるのに対し、脱分極条件下(25mM KClを含む培地)で培養した顆粒細胞では、このBDNFによるNR2Cの誘導は完全に抑制されました。また、このBDNFシグナルの脱分極による新規な抑制機構には、L型電位依存性カルシウムチャネルを介したカルシウム流入と、それにひき続くカルシニューリンの活性化が関与していることを明らかにしました。さら私たちはBDNFの高親和性受容体であるTrkBの遺伝子ノックアウトマウスにおいて、実際に生後発達期の小脳顆粒細胞のNR2Cサブユニットの発現が著しく減少していることを示しました。以上の知見は、「脱分極によって活性化されたカルシニューリンによるBDNFシグナルの抑制機構が、生後発達期の顆粒細胞においてNR2Cサブユニットの発現を制御している」という仮説を支持するものです。
(2)カルシニューリンシグナリングによる小脳顆粒細胞の生後成熟の制御
上記の研究結果に基づき、私たちはカルシニューリン活性の抑制がNR2C遺伝子の発現調節だけでなく顆粒細胞の成熟全体の引き金になっているのではないかとの仮説を立てました。本研究ではこの仮説を検証するために、カルシニューリン活性の抑制と顆粒細胞の生後成熟との関係をDNAマイクロアレイによる網羅的遺伝子発現解析により調べました(Sato et al., PNAS, 2005)。私たちはまず脱分極条件下と非脱分極条件下での培養顆粒細胞の遺伝子発現プロファイルを比較し、次いで脱分極条件下におけるFK506存在下と非存在下の遺伝子発現プロファイルを比較しました。この2組の比較により、FK506存在下で発現増加(FK-up)あるいは減少する(FK-down)遺伝子群は、脱分極条件によって発現減少(Depo-down)または増加する(Depo-up)遺伝子群と、それぞれかなりの程度で(71-85%)重複することを見いだしました。またFK-up/Depo-down遺伝子群にはGABAAa1, a6やKCC2、TASK-1など成熟顆粒細胞に特徴的なシナプス伝達に関わる受容体やイオンチャネル類が多く含まれたのに対し、FK-down/Depo-up遺伝子群 にはdoublecortinやCARなど未熟な神経細胞に発現の高い細胞内シグナル分子や細胞接着分子が多く含まれました。 これまで脱分極培養条件による小脳顆粒細胞の生存促進は、生体内における苔状線維からの入力を模した活動依存的な細胞維持を反映していると考えられてきましたが、以上の結果は逆にむしろ脱分極条件は顆粒細胞を外顆粒層でみ られるような未熟な状態にとどめるの効果をもつのに対し、非脱分極条件はカルシニューリン活性の抑制を介して顆粒細胞の成熟の遺伝的プログラムを活性化することを示唆しています。このことは外顆粒層に存在する未熟な顆粒細胞は内顆粒層の成熟した顆粒細胞よりも浅い静止膜電位をもつという電気生理学的知見とも一致します。次にこの結 果を生体内での顆粒細胞の成熟に関連づけるために、生後発達期の小脳における上記の遺伝子群の発現量変化をreal-time PCRで定量したところ、小脳の生後発達に伴って発現量が上昇した遺伝子群の多く(91%)はFK-up/Depo- downに属し、生後発達に伴って発現量が減少した遺伝子群の多く(83%)はFK-down/Depo-upに属しました。また 同定した新規遺伝子の発現パターンをin situhybridizationで解析すると、私たちの予想通りFK-up/Depo-down 遺伝子群の多くが内顆粒層の成熟顆粒細胞に発現していたのに対し、FK-down/Depo-up遺伝子群の多くは外顆粒層の未熟な顆粒細胞に強く発現していました。以上の知見から私たちは「顆粒細胞の生後発達に伴うカルシニューリンの活性の抑制が、未熟な顆粒細胞で機能する遺伝子群の発現抑制と、成熟顆粒細胞で機能する遺伝子群の発現増加と を協調的に制御する」という仮説を提案しました。
(3)BDNFシグナリングによる小脳顆粒細胞の生後成熟の促進
上記の研究で、NR2Cの発現増加を誘導するBDNFシグナリングの顆粒細胞の成熟における役割は未解決であったため、私たちは本研究で、非脱分極条件下におけるBDNF処置の有無によって顆粒細胞の遺伝子発現プロファイルを比較し、同定した遺伝子群について上記と同様の解析を行いました (Sato et al., BBRC, 2006)。私たちはBDNFによって発現増加する 比較的少数の遺伝子群(BDNF-up)の中に、小脳の生後発達に伴って発現増加する遺伝子が多く含まれること、およびこれらの遺伝子の発現量がTrkBノックアウトマウスの小脳で有意に減少していることを見いだし、BDNFシグナリングが生体内で顆粒細胞の生後成熟を促進することを示しました。さらに本研究で同定したBDNF-up遺伝子群と上記 の研究で同定したFK-up/Depo-down遺伝子群にはNR2Cの他CaMKKb, Nptx1, Tiam-1などが共通して含まれたことから、これらの遺伝子に共通する発現調節機構の存在が示唆されました。私たちはこの研究の知見と上記の研究の知見とを総合して、カルシニューリンシグナリングとBDNFシグナリングの相互作用による小脳顆粒細胞の生後成熟のモデルを提案しました。